しかし、今日思えば次の様な体験が、それを描くに当り、伏線的役割を果す結果と成っ たとも思われます。それは1968年メキシコの人類学博物館で「太陽の暦や絵巻物」を 見た事や、1971年欧州各地で「イコン」を鑑賞し、1974年インドネシアで住民の 描く「図像」を知り、又1975年日本で「チベット密秘画展」を観る事が出来たこと等 で、それらは風土習慣こそ異なる国々の文化遺産なのですが、そこには多数の共通性が現 われ、今まで私の体内や脳裏に点在していたそれらのソースが、ある瞬間一円の輪を成し た事によって、その共通点であるイコノグラフイー的な類似性は、私感的な判断で洞察す ると、人間の持つ本能の一端である「集合」の図式化と深く関連があると思い、と同時に 自己の過去の絵画作品を思い浮べ照し合わせると青や緑を主調として描いた作品「家並み」 で家の集合、又近年の連作で「蝶」の集合を無意識にテーマとしている事から、今度は曼 陀羅を描くにあたって、其のイコノグラフィカルな特徴に私は心を奪われて行ったらしく、 又それらを自己分析的に推察すれば、「家並」「蝶の群れ」「曼陀羅」等の図型的共通性 の『集合』は、自己の精神面に於ける、内在する孤独の反対真理、つまりたくさんあれば 賑やかで良いと言う様な見方での図式化であると私は思い込んでいます。しかし「蝶」等 を制作した時の作画姿勢のみでは、曼陀羅は私を寄せつけず、その奥深い秘密的宗教性は、 我々の生活する宇宙すべてを包括している様で、簡単には制作に着手出来ませんでした。
話しは少し横道にそれますが、私の家の宗派は、臨斉宗妙心寺派の禅宗で、真言宗密教 とは対批する事さえ可能な宗派で、禅の自己より始まり自己に終る思想と反した、密教の 対宇宙的な考えとでは相違はあるのですが、相方の宗派にも日本文化史に於て、優れた芸 術を生み出した共通点を含んでいるし、つまりそれ等は禅の水墨画であるし又密教の曼陀 羅等の極彩色豊かな内的に絢爛たる美術で、その意味からも、墨画の明暗、即ち密教にお ける白と黒の境地で極彩色世界を転化させる所に作家としての創作があり、又別の意味で は、古代人の日本精神文化即美術文化の時代の再発見があるのではないかと考え、そして、 今までの単なる作画態度に、二年半前の出来事で精神面での姿勢が追加され、その後は一 気呵成に十余点の作品を描き上げてしまいました。
今、自己を客観視すれば、密教信者でもない私が、密教教理の「密」の字も知らずして 密教の重要法具である、曼陀羅を絵描いた事はその教えを冒涜するに等しいと反省し、自 己慰みの心算で、曼陀羅写本終了を期し、古都京都を訪れてみました。
先は真言院密教の総本山である教王護国寺を尋ね、そこの金堂に赴き、薬師如来様に、 お叱を受けるつもりで、暫し堂内に侘み、霊気の言葉に傾聴し一時の緊張感を体験しまし た。 霊界を背に格子戸を開くと、真昼の黄色い照り返しで少し目を痛め、次は寺内の宝物館へ 足を運べば「請来展」と題して、弘法大師空海が、唐より請来された、一般公開希なる、 密教画又法具に至る貴重な品々を鑑賞出来、そして館内の千手観音像の前で、偶然にも僧 呂と話す機会を得て、祭壇の四方とその中央を飾る、五色の緑・黄・赤・黒・白の色の意 味等の教えを授かり、微少ではあるが私も密教の初心求法者になった心意気で、その後、 館内の数々の宝物を拝見しました。そこを去る時、記念に香袋と「古寺巡礼京都東寺」な る書物を購入し、次の目的地である、高雄山の神護寺へ足を向けました。
石段の参道を登り、寺内に達し、朱の金堂に入り、十畳敷以上もある両界曼陀羅を眼前 にし、十数年前の自分が又今日、別の意味に於て、過去の一点に戻った事を知り、その席 で聞く学僧の説明も、今回は深い味わいを持って学ぶ事が出来ました。学僧の話しに拠れ ば、両界曼陀羅を描れた尼僧の修行又その努力は、私などの愚行とは格段の差があるのを 思い知り、傷心落胆し寺外に出、参道を下ったが、石段も先程より幾石段も多く感しられ、 又夕暮空も私の顔の色よりは穏やかでした。
京の町を去る時は既に夜を迎え、暗い中に点在する人家の明さえ恋しく思えました。 その夜、帰宅後、東寺で仕込れた書物を紐解き、目を通して居ると、ふと見習れた日付 に目が止りその個所を読んでみますと、「弘法大師が唐より帰国され、十二月十四日(弘 仁三年)に胎蔵界曼陀羅の『結縁潅頂壇』を開かれた。」との事で、「『結縁潅頂壇』とは真 言院密教求法者として資格を与えられる時、曼陀羅を敷き、そこへ目隠しをした僧呂が法 華を投華し、華の落ちた所の尊像と僧の緑を結ぶ事で、空海は曼陀羅の主尊である大日如 来に華が降り、名実共に密教求法者として十分な能力と資格を師恵果より与えられた。」と あり、因に好奇心旺盛な私が真似て投花しようものなら、曼陀羅以外の所へ落る様な気が して、未だ試す気になれないなどと夜の更け、そして空の白々しくるるまで身勝手な空想 に耽っていました。
話しは逸れましたが、前記した見覚えのある日付とは実は私の誕生日であり、その日か ら丁度1154年前に、弘法大師は「潅頂壇を開き、百数十名の新たる弟子を得て密教 の布教を広めたと知り、大師とは関係の深い、密教法具としての、両界鼻陀羅、強いて言 えば胎蔵界曳陀羅に親近感を感ずる今日此の頃です。
某年 十二月十四日
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